お呼びじゃなかったEF58の画像⑨
1992年から3年間の福岡転勤では散々遊んだが夏は仕事が大変だった。まあ年間を通じてプロ野球やらサッカーなども多かったが、何より福岡は九州全域と沖縄までをカバーする職場。管内の支局にはカメラマンはいないから大きな事件や事故があれば夜中でも連絡が来て現地へ駆けつけるのは日常茶飯事だった。
特に夏が大変だったのは梅雨明けの時期になると毎年大雨による水害が発生し、そのほとんどが南九州だったからヘリが使えない夜間は車で出かけなければならない。夜が明けて到着し暑い中、泥だらけになって捜索活動を撮影し、さらには行方不明者の顔写真などを集め電送する作業は、まだ携帯電話など普及する前だったから近隣の民家の電話を借りるなどしなければならなかった。朝夕刊の締め切りに間に合うよう撮影後の写真電送の時間を見越して現場を離脱するタイミングも難しく、その間に救助される人がいる場合を考えると気が気ではなかった。
足元は泥、ぬかるみから出ても照り付ける太陽は容赦なく、汗だくになりながらの取材は記者の連中がするはずもなく、現場から離れた場所で人づてに聞いた話を記事にするわけだが、記事に合わせる写真を撮って欲しいなどと勝手なことを言われてしばしば大喧嘩になった。例えば現場での行方不明者の捜索も実際はある程度あきらめムードになっているのに、記事では「現場では必死の捜索活動が続けられている」などとするものだから、そんな様子を見つけるために右往左往したものだ。
今も昔も記者の連中は「こたつ記事」ばかり。自分もカメラを持っているくせに撮影するつもりもないし、ましてやフィルム現像が面倒くさいものだから写真を撮ろうとしない。仮に撮っていても現像をカメラマンに依頼して後は知らん顔。だから地方支局の記者が重要なカットのネガすら保管していないことなどザラ。
鹿児島の現場が落ち着いたと思うと続いて宮崎や熊本でも発生し、その移動のために疲れた運転手に代わってタクシーを運転したことも思い出す。ユニクロなんて九州にはまだまだなかったし、着替えを買うのも苦労した時代だ。
松山で土砂崩れが発生して現在3人が行方不明という。松山には何度も行ったから少しは街の様子も知っているが松山城のすぐ下にマンションが林立し、その隙間に民家があるのは知っていたから、「土砂崩れが起きたら泥濘はマンションに遮られて民家に押し寄せるんではないか」と考えたのはもう15年ほど前だっただろうか。
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過去の写真を見直すと気づくことがある。もちろん見ていたくせにそのときは目につかなかったことだから、往々にして些末なことばかりだが、この長岡のEF58110についても同様。そもそも大窓以外のEF58には関心がなかったのだから当たり前でもあるが、耐寒型の長岡機なのになぜかこの日はスノープローが装備されていない。だから後にも先にも耐寒装備のEF58のスノープローの取り付け台座を見たのはこれっきりで、そういう観点からすればネガをじっくり見直すのも案外楽しいものだ。まあ何らかの都合でこの日は外されていたのだろうし、その「何らかの都合」についてあれこれ想像をたくましくするほど偏執狂でもないから理由についてはどうでも良いが(だけど、こういうことをああだこうだと指摘してくる奴も多いんだよな)、スノープローがないとこんな姿なのだということが分かったのは「百聞は一見に如かず」といったところか。
1978年10月21日の上野駅。この日は乗り気じゃなかった客車列車の編成調査に駆り出され上野駅のホームを駆けずり回った。その合間に撮ったショットだが、長岡のEF58など滅多に撮ることはなかったから同区所属のEF58については写真を撮っておくことにした。その中の一枚。
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