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2024年8月

2024年8月29日 (木)

紀伊田辺機関区でDF50の夜間撮影

報道各社の世論調査では次期自民党総裁には石破茂元幹事長が人気ナンバー1となっているが、しょせん総裁選は自民党議員と党員が行う選挙。投票できない一般国民を対象とした世論調査の結果など全く持って意味はない。そのことは当然ながらマスコミも分かってやっているのだから、こんな愚にもつかない調査結果が連日大きく報じられるのは候補者にロクでもない奴が多く、せめて石破さんにでも立候補してもらわないと政権を預かる与党の総裁選としてカッコがつかないとの思惑が働いているからではないかと勘ぐってしまう。
とりわけ今回の総裁選は最初の投票で1位の候補が過半数を得られなければ上位2者で決選投票になるのはほぼ確実。その時点で石破さんが残っていなければ党所属議員と党員の中での人気が下位だったなどと、後になって言い訳がましく伝えられても何ら意味はなく、現時点でそのことを見出しにとった記事にすべきではないか。政局に絡む報道の胡散臭さは相変わらずだ。

それはそうと米大統領選ではないが「もしトラ(もしかしてトランプ)」ならぬ「もしかして小泉」も深刻だ。
たしか数年前の「週刊新潮」では偏差値30とも40とも言われ、答案用紙に自分の名前さえ書ければ合格できるなどと誠しやかに言われる日本の大学から現職首相だった父の力を借りての米コロンビア大学院へ「学歴ロンダリング」した経緯が関係者の実名入りで記事になっていたが、いかに米国の大学院には有名人や金持ち子弟の入学枠があるとて、一般家庭の学生だったらまずあり得ないこと。世間並みの苦労も経ずに何から何まで親の七光りに頼ってきた若僧に国政の舵をとらせるなど政権与党として暴挙もいいところだ(田中角栄のアクの強さがあれば別だが)。万が一にも首相になれば、きっとバックにいる森元首相など海千山千らの傀儡となるのが関の山だろうが、それにしても国連気候行動サミットで「気候変動問題に取り組むとき、それは楽しくなければならずクールでなければなりません。それもセクシーでなければなりません」(どう解釈しようと意味不明) などと、頓珍漢な発言をした小僧では日本人は、トランプを大統領に選出して世界中の物笑いの種になったアメリカの国民よりもレベルが低いと恥ずかしい思いをするのではないか。首相になったとしてもすぐに馬脚を現すのは目に見えている。そうなったとき、こいつが首相にふさわしいと思っている奴らは何を語るのか。見ものだ。

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前回の記事と同様、1977年のゴールデンウイークに訪れた紀勢線のDF50。写真は紀伊田辺機関区でのもの。

この日は新宮からの列車で夕方到着した後、和歌山方面から来る夜行列車で再び新宮へ戻る計画だった。もちろん宿代を浮かすのが目的だったが、列車の待ち時間中に構内に休むDF50を撮ることも当然プランに入れていた。
亀山のDF50は和歌山まで通しで運用されることはなく、新宮か紀伊田辺で燃料補給をすることから、両機関区には必ず数両がDF50がたむろしていて、数を撮るには非常に便利。ただ新宮は、ここを始発としたり終着とする列車も多く、気動車の出入りも多かったため、三脚にカメラを付けたまま構内をうろつくには田辺の方が安全で、好き勝手に移動しても注意を受ける心配はなかった。

すでに蒸気機関車時代の扇形車庫は取り壊され、電化に向けた工事も進んでいたが、まだ架線が張られていなかったのは撮影するうえで楽だったように記憶している。

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2024年8月27日 (火)

尾鷲駅のDF50貨物列車

25日の趣味仲間との宴会は泥酔することもなく無事終了と思って帰宅したら「無事」では済まず、後になって酷い胃痛に見舞われた。ここしばらく外で酒を飲む機会が減って、久々の痛飲に胃が驚いたのかもしれない。二日酔いとは違うムカつきに襲われ昨日は丸一日家で横になっていた。不快感の原因はおそらく宴席で飲んだ紹興酒ではないかと推測する。

もともと酒に関して好き嫌いはなく、紹興酒もかつては自宅に常備していて一晩に一本程度空けても問題なかったのに、年齢とともに体質が変化して体に合わなくなってしまったのかもしれない。思い返せば毎年ゴールデンウイークに開く宴会でも、もはや紹興酒は自分にとって甘すぎて体が受け付けなくなってきたように感じていたから、その傾向が顕著に進んでしまったのだろうか。この分だと甘口のワインにも要注意だ。

それはそうと最近、前兆もなく体のあちこちに痛みを感じることがある。先週などは夜中に左ひざの関節が急に激しく痛みだし、その痛みはこむら返りのようでベッドで煩悶したが、それでも予兆があるならまだしも、いきなりやって来る痛みは対処のしようがなく焦る。救急車を呼ぼうかと思ったほどだ。自分ではまだまだ若いという意識は捨てきれないものの、確実に老化が進んでいるのだろう。だから嫌々70歳まで仕事などしないでサッサと見切りをつけたことをますます良かったと思う次第。
胃のムカつきはまだ少し残るがかなり回復したので、今日は二日ぶりにパソコンを開く気になった。

さて、宴会自体はなかなか濃い内容で、久しぶりに顔を合わせた方々との話も弾み午前11時から午後6時ごろまで楽しく過ごすことができた。さすがに現役バリバリの方々は現状に明るく、JRの某社が計画している国鉄型機関車を流用して「まがい物」をつくるロクでもない企画などについても耳に挟んだが、詳細についてはここに記すのもあまりにもバカバカしくてくだらないものだから割愛させていただく。遠からず発表されれば我々世代のファンはきっと自分と同じような感想を持つだろう。

飛行機の都合で一足先に帰ったAさんご夫妻、有意義な時間をセットしていただきありがとう! 次に会える機会をまた心待ちにしております。

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DF50を1両でも多く撮ろうと1977年のゴールデンウイークに訪れた紀勢線。紀伊長島や新宮、紀伊田辺などを行ったり来たりしながら片っ端から亀山機関区所属のDF50を撮りまくった。貨物も旅客も全てDF50が担当していたから、一網打尽の如く数だけはたくさん撮ることができたが、連日の夜行列車利用は体力的にかなり消耗した。おかげで旅行の後半は列車に乗るとすぐに睡魔に襲われ朦朧としながら撮影していた。
急行列車も当時の車両は窓が開くから、駅を通過するたびに車内から対向列車を撮っていたが、中にはどの駅で撮影したか分からなくなってしまったものもある。

連休中ながら紀勢線も白浜以南は観光客はまばらで、せいぜい紀伊長島付近に釣りに行く客で夜行列車がにぎわう程度。5日間の滞在中、ただの1人として鉄道ファンは見かけなかった。
この頃はホームから線路に下りて撮影するなど当たり前で、むしろ下手に自己規制してホーム上から撮った写真を見ると、後になって理性に沿って行動したことを後悔してしまうほど。もちろん発車の時刻や退避する列車の通過時刻などは頭に入っていて、その点には注意していたのは言うまでもないが、とにかくまだのどかな時代だった。そもそも機関区の見学も事務室に行って氏名と連絡先を記載すれば付き添いもなく、ほぼ自由に歩き回れたのだから推して知るべし。良い時代に鉄道撮影できたことをつくづく幸せに思う。写真は尾鷲でのもの。機関車の前面、貫通扉脇の手すりにかかる鎖が片方外されているのは、ここから重連になるための準備と思われたが、自分が乗ってきた新宮に向かう下り列車(貨物列車の後ろに隠れている)の発車が迫り、そこまで見届けることはできなかった。

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2024年8月22日 (木)

紀勢線和歌山口のDF50重連

次の日曜日は大阪からやって来るA氏らと久しぶりに酒を汲み交わす。
列車撮影を通じて知り合い半世紀近いお付き合いだが、もはや共通の趣味の世界に魅力ある被写体もなくなって最近は線路際で会うこともなくなっている。さて今後の交流はどうなるか? 宴席ではおそらくそんな話題から、一緒に撮影に出かけたときの昔話に花が咲くのだろうが、顔の広い彼のこと、さらには参加者には自分たちよりも少し若い現役バリバリの方々もいるようなので何か刺激を受けるネタを頂戴できるかもしれず、そんな意味でも楽しみだ。

こうやって仲間が集まる機会も、集まるきっかけとなるネタがなくなれば自然消滅することも多いが、それでも継続できることはひとえにA氏や、毎年ゴールデンウィークの宴会の幹事を引き受けてくれているM氏らの尽力によるもので心からありがたく思う。セッティングを人任せにしがちな自分のような人間が多い中、積極的に声をかけてくださる彼らの存在は仕事をリタイヤして時間に余裕ができた者としては外出する機会にもなるわけで、そういう観点からも大変嬉しい。今回も大阪から来るA氏がわざわざ東京で招集をかけてくれることに対しては後ろめたい気がするものの、そこは素直に甘えて大いに飲んで語って来るつもりだ。

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紀勢線で活躍したDF50はこの写真を撮った1978年以降、同線の一部電化などで急激に数を減らしていくのだが、このころはまだまだ旅客、貨物列車ともにかなりの両数が使われており、しばしば訪れた和歌山周辺でも当たり前に撮ることが可能だった。だから和歌山市に滞在していても朝から晩まで線路際で待つ必要などなく、光線が良くなる昼過ぎや上り下りの列車本数が密になる13時ごろに撮影地に着いて、そのまま夕方のキハ81で運行される「くろしお」まで居残るのが日課になっていた。

ちょうど「鉄道ダイヤ情報」も東北線からEF57が消滅したばかりで、次の照準をDF50に合わせてきたのかダイヤや運用も掲載され始め、撮影は非常に楽になったが、「ダイヤ情報」に頼らざるとも市販の時刻表さえあれば客車列車の時刻は分かるし、貨物列車についても「鉄道ファン」別冊の特急列車撮影地ガイドの巻末の大ざっぱなダイヤ表を見ればじゅうぶんで、緻密に調べなくともそこそこの数を仕留めることは可能だった。
だから関東で管理局報を見て団体列車などをチェックするような手間も省いて、時間が来れば線路際で目の前に現れる列車を片っ端から撮るという素朴な姿勢で撮影に臨め、希に12系客車の団体列車などがやって来れば「おまけ」として素直に喜んだものだった。

今回の写真は日々のルーティンとなった午後の撮影中、偶然やって来た重連貨物。南紀という観光地を控え、団体列車でも設定されたことで生じた機関車の回送だったのかもしれない。たまたま標準レンズを装着していたから2両目の機関車のサイドが見えるアングルになったが、どうして望遠を外していたのか記憶がない。なにしろ前後のコマを見れば全て135ミリで撮っているのだから、ひょっとしたら重連で来ると分かっていたのではないかと推察する一方、自分に関しては絶対にそんなことをするわけはなく不可解な一枚でもある。

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2024年8月21日 (水)

銀帯のDF5026

往年の世界的二枚目俳優、アラン・ドロン氏が死去した。

中学生のころ、学校帰りに都内の映画館に入り浸り外国映画を貪るように観賞した時代、彼が主役の映画は数多く上映され、結構な本数を見てきた者としては強烈な寂しさを感じる訃報だった。
有名なルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」はニーノ・ロータの音楽とともに日本でも人気を博し、アラン・ドロンの名が一躍世界に広まったが、個人的にはもう少し年を取ってから主演した「冒険者たち」「シシリアン」「さらば友よ」「ビッグガン」「スコルピオ」などのアクションものが好きで、まだ中学生だった自分も、あんな渋い中年になりたいとまで思ったものだ。
またレナウンのダーバン(紳士服のブランド)のCMにも登場していて、ダークスーツやトレンチコートなどをまとった姿をテレビを通して見かけることも多く、二枚目ぶりは子供心にも際立って映ったものだ(ちなみにこのCMの音楽は小林亜星氏の作曲)。カッコいいとか今で言う「イケメン」などと、そんな生半可なものではなく、最近の甘っちょろく腑抜けた顔をした国内外の二枚目俳優には全く見られない、色濃く漂う「陰」の部分が素敵で、そこに見え隠れする「悪」の一面が二枚目ぶりに一層の拍車をかけているように感じた。

我が家のグルニエには昔見に行った映画のプログラムやチラシ、レコードが多数残っていて、これまで幾度となく処分してしまおうかと考えたこともあったが、久しぶりに引っ張り出して映画にはまっていた当時を偲んでみようと思っている。アラン・ドロンはもちろん男優ではスティーブ・マックイーンやチャールズ・ブロンソン、ジャームズ・コバーンにマカロニ・ウェスタン時代のクリント・イーストウッド、女優ではオードリー・ヘプバーン主演のものが圧倒的な数を占める。

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ゼンザブロニカEC-TLを買った1978年9月に和歌山機関区で撮影した、お召列車けん引に充当されたこともあるDF5026号機。これ以前にも撮っているがモノクロで撮ったものだから、お召列車牽引の名残である銀帯に気づかず、この日が初めてカラーでの記録となる。

ブローニーの6×6サイズでは12枚しか撮影できず、35ミリフィルムよりも慎重に撮らなくてはならず、露出も含めてこんな1枚を撮るのにけっこうな時間を費やしたことを思い出す。
光に帯がうまく反射して、それが銀であることが分かる角度を探し当てるのに苦労したが、すぐ隣に蒸気機関車時代に火室下部から灰を落とすために設けられたアッシュピットがあったおかげで低い位置から撮ることができた。

ウェストレベルファインダーで左右逆像の6×6サイズは扱い使いづらかったが、この後に買ったペンタックス6×7の場合はタテで撮るケースでは非常に不便で、車両基地などではむしろブロニカの方が便利だったように思う。それまで35ミリフィルム一辺倒で撮ってきた若者にとって当初ブローニーフィルムの粒状性は素晴らしく感じられたもので、自分の好きな車両を撮るときには必ずブローニーを用いたが、超望遠レンズを使うようになるとモノクロの場合、少しは粒子が荒れている方が迫力が増すように感じ方に変化が出てきた。
そもそもこのブロニカやペンタックスの6×7は「中判」であって「大判」ではないのだから、現像に失敗すれば35ミリと画質に大差がなくなるのも当然だったが、まあ若いころの無知もあってこれらのカメラに盲目的に憧れたものだった。今思えばそんなものに金を投じるなら、もっと長いレンズにこそ資金を回して画角の違いをもっと早く知った方が利口だったと思う。

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2024年8月18日 (日)

お召し列車牽引のEF5861の流し撮り

長野への旅行はちょうど台風の到来と重なったが影響はほとんどなく、むしろ厳しい暑さに参った。特に黒部ダムからさらに上がった立山室堂(むろどう)は太陽を遮るものもなく熱中症になりそうな酷暑だった。遊歩道も石がゴツゴツしていてウォーキングシューズでは歩きにくく、ライチョウを見つけることも叶わない。現地の自然センターで聞いたところ涼しい場所を好むライチョウは、あまりにも暑いために室堂よりもさらに高いところへ移ってしまったようで、むしろ霧がかかるような曇天か小雨の方が見かけるチャンスは高いというから、今回はそれ以上無理をせずに下山することにした。

初めて訪れた黒部ダムは圧巻。まだまだ建設用の機械も進歩していなかった昭和30年代にあのような山奥にかつてないほどの巨大ダムを建設したことに呆れ、驚き、そのうえで賞賛もするが、過酷な工事で犠牲となった人々の慰霊碑を前にすると、当時と現代の労働者の待遇や扱いを「時代の違い」という言葉だけで片づけてはいけないような感慨がこみ上げてきたのも事実だ。
NHKの「プロジェクトX」や映画「黒部の太陽」などで厳しかった建設中の様子はかじっていたが、実際にあの場に行ってみると、とにかくそんな生やさしいものではなかったと実感できる。ここを訪れるつもりなら景色やその規模だけに注目せず、建設に携わった人々の生き様などを想像しながら足を踏み入れるべきだろう。もう少しそんな感性を磨いて再訪したい。

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旅行中、岸田が秋の自民党総裁選に立候補しないことを発表した。このことは妻がスマホで知って教えてくれたが、終戦記念の日の前日に発表したらどうなるか、あのバカは考えが及ばなかったのだろうか。教えてくれた妻に開口一番、自分がそう言ったのは翌日の朝刊がこのニュースばかりを大きく取り上げ終戦の日の記事が隅に追いやられることと、首相として全国戦没者追悼式で読み上げる式辞が空疎なものに聞こえてしまうことを想像したから。実に大した大馬鹿野郎だ。

まあマスコミも、総裁選不出馬の話をもっと早く察知できなかったから、いかに記者どものレベルが落ちているか露呈してしまったが、それにしても特ダネは降って湧いてくるようなものばかりではなく、「ひょっとしたらこの時期だからこそ岸田が退陣表明する可能性がぬぐえない」と山を張って取材していなければ特ダネなんてつかめないわな。お盆休みで世の中が大きく動かない一週間、休みを取ってのんきに構えていたのだろうが、総裁選が近づき岸田の進退に注目が集まっているこの大詰めで、どの社の記者もその気配を感じていなかったか予想できなかったとしたらマヌケばかりだ。しばらく時間をおいて、さも知っていたようにこの前後の官邸周辺の動きを記事にしても自分たちの無能ぶりを宣伝するだけで後の祭り。「ニュース」とも思えない。

それはそれとしても、この岸田という人物、見事なほど情けない首相だった。世襲をもくろんで秘書官にしたバカ息子が首相公邸の階段で組閣時の記念写真のまねごとをしたのは首相の責任ではないまでも、統一教会の問題は進展せず、防衛費倍増の財源について何も語らず、裏金問題も中途半端なまま。それを今になって「裏金問題のけじめをつける」というのは詭弁以外の何ものでもなく、ならばもっと早く辞めていなければおかしいと言われるのも当然のこと。辞任のタイミングをズルズル延ばしてきたおかげに党内の不満が膨らんで総裁選に出ても勝ち目がなくなり、再選されたとしても今度は衆院選に勝利する自信がないものだから詰め腹を切らされるかと、慌てて退陣表明となったのは無様でしかない。まるで「猫」を噛まずして逃げ回る意気地のない「窮鼠」の風で、一国の首相として滑稽極まりない。

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かつて「鉄道ジャーナル」誌に掲載していただいた写真で、このブログの開設当初もアップしたことのある1996年10月のお召し列車牽引のEF5861。「鉄道ジャーナル」の印刷があまりにも暗く、自分で少し色を調えてみた。

実はリバーサルフィルムの写真を最近の趣味誌に掲載していただかないのは、印刷がデジタルカメラで撮った画像の印刷には適している反面、古いリバーサルの印刷には向いていないように感じるから。中には大変見苦しい色のものも散見され、リバーサルを掲載していただくとしたらポジをそのままお貸しするよりも自分である程度、色調を調整したものを提供させていただく方が良いのかどうか逡巡しているから。

リバーサルフィルムでの撮影は今のデジカメに較べると難易度は高く、ちょっとした露出の過不足も致命的な痛手を受けたもの。緻密な計算や勘が働かなかった自分には失敗も多く、かつては印刷で救っていただけたこともあるが、最近はそこまで面倒を見てもらえないのか、先の「鉄道ジャーナル」のような結果になることが怖い。そこで久しぶりに昔の画像をいじってみたというわけ。

この日は往路復路ともお召し列車として61号機が旗を掲げて走ったが、復路は光が往路よりも芳しくないことから、撮影者の少ない側から手持ちで300ミリ F2・8を振ることにした。また、短い単ダマのレンズだと流し撮りをしない撮影者の邪魔になるため線路に近づけず、ある程度距離が離れても61号機を大きく写すことができる300ミリを採用した。
大口径レンズを手持ちで撮影することにリスクを感じたが、実際にやってみると300ミリ程度ならその重さが上下のブレを抑えてくれる。線路上を右から左、または左から右へと一定方向に動く列車撮影の場合、失敗する確率はそれほど大きくないから自分の場合、あまり恐れずにやっている。

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2024年8月10日 (土)

お呼びじゃなかったEF58の画像⑯

8日の日向灘を震源とする地震で気象庁が「南海トラフ地震臨時情報」が発表した。今後一週間以内に巨大地震が起きる可能性が平時よりも高まったということで、必ずしも地震が起きるというものではないが念には念を入れ昨日朝、備蓄用の水などを買い込んだ。長年、報道する側にいた身、大規模災害が起きれば人々がどう行動するかおおよそ見当がつくし、ましてや無職となったのだから時間はいくらでもある。いち早くできることをしたのは当然のことだ。

それにしても同じことを考える人は多く、開店と同時にスーパーの飲料水売り場はごった返していて驚いた。「一人1ケースにしてください」と書かれているのにいくつも買おうとして制止される人、何度もレジに並んで少しでもたくさん購入しようという主婦。なかなか面白い光景が繰り広げられていた。

帰りに車のガソリンも満タンにしておこうとスタンドに寄ったら、こちらはガラガラ。お盆休み前でもあるからもっと混雑しているかと思ったら平穏でビックリ。電気自動車が普及した影響もあるのだろうか? だとしても現状、電気自動車などは充電スタンドが足りないし、電力供給が滞ったら大変だと思うが、こればかりは自分が仕事をしていた時にそんな状況は見ていないから想像がつかない。電気自動車ってそういう意味ではまだまだ災害時に弱いのではないかと感じたが、果たしてどうなのだろう?

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1979年5月4日撮影のEF5830。このころ定期運用のなかった下関の4両のEF58の中の1台。以前の記事にも書いたが4両中、2両が大窓だったから事前情報がなくてもダメ元で見に行ったが、この日は「はずれ」だったわけ。
先台車が鋳鋼製というのが特徴だったが、下関にはほかに29号機という大窓のEF58が存在していたから、この30号機は全く注目されなかった。東京駅に早朝到着する8110列車で、14系客車を12両牽引して上ってきた。

東京駅の東海道線ホームは有楽町寄りも神田寄りもカーブしていて12両もの編成になるとすべてフレームに入れるのは難しく、入れようとするとホーム上にいる人間が入ってしまうこともあり、長い編成の撮影には不向きだった。

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2024年8月 7日 (水)

お呼びじゃなかったEF58の画像⑮

今朝の朝日新聞の経済面にある、パリ五輪で報道陣が使用しているカメラに最近ソニーが増えたという記事。何を今さらと思った読者が多かったのではないだろうか。こんな話、リオ五輪以前から何度も書かれていた内容で今に始まった現象でもなく新鮮味に欠ける。写真入りで5段も割くような記事か? 

きっとこんな既視感のある記事を載せざるを得なかったのは株価の大幅下落や急激な円高で、経済部記者がそちらの取材に手いっぱいになって経済面を埋める記事が足りなかったからだろう想像してしまう。盆暮れは政治や経済界の動きがなくなるから事前にひまネタを仕込んで紙面を埋めるが、まだお盆まで少し時間があるから記者からデスクに記事が上がって来ず、早く提稿された中から慌てて仕立てたようにしか思えない。

それにしてもこんな話はとっくの昔に各社こぞって書いているし、朝日だってオリンピックのたびに掲載してきただろうに。邪推すれば何年か前の古い記事をひな形にして「〇〇五輪」を「パリ五輪」と書き換え、製品名を最新の機種に書き換えただけ。自分が勤めていた会社の記者もやっていたが、ネタを拾えないときに記者が急場しのぎでよくやる手だ。

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来週早々から長野への旅。毎度毎度、北海道も良いが、夏休みで混雑することもあって、静かな時期の北海道を知っている者としては何もそんなタイミングで行くこともなく、ならば気分を変えてたまには近場の信州も良いだろう。

もちろん信州とてこの季節多くの観光客が訪れるが、夏場の北海道は動物の動きも鈍くてあまり写真にならないから、そういう時こそまだ行ったことのない所に行っておけば見聞が広まる。長野の富山、岐阜県境付近はこれまで一度も訪れておらず、ひょっとしたらライチョウを見られる可能性もあるため、比較的早いうちからホテルを予約しておいた。夏毛のライチョウは決して見た目の良い鳥ではないが、北海道でエゾライチョウを撮ったこともあり、本家本元のライチョウのもとを「表敬訪問」したい。

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1980年2月23日、宇都宮で撮影した「八甲田」のEF58152。アルバイトの業務で宇都宮に行くことがあり、少し早めに家を出て駅でウロウロしたときのもの。この少し前から「八甲田」や「津軽」などの夜行急行も旧型客車が12系へと変わり、それ以前の田舎臭い編成から少しは近代化された。もちろん個人的には田舎臭い方旧編成の方が好みだったが普通席でもクーラーが効くようになったわけで、乗客にすれば夏場はずいぶん快適性が向上したと思われる。

すでにこのころはEF58は59号機を残して全機撮り終えていたから、宇都宮に行っても取り立てて興味を掻き立てるものはなかったが、自腹で交通費を払う必要がないのだから当然カメラを持参した。もちろん大窓のEF58など来るはずはなく、学生ながら出張の合間を楽しんだというわけ。
けっきょくEF58は全て撮れたが、東海道方面のものよりも東北、上越筋のものは撮影回数が圧倒的に少なく、中には1度しか撮っていない機体も多い。もともとEF58全機を撮るつもりなどなく、結果的に撮れてしまっただけだから絵的にろくなものは残っていない。

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2024年8月 4日 (日)

お呼びじゃなかったEF58の画像⑭

テレビを見るとやっているのはオリンピックばかり。毎度のことながらウンザリする。そもそもオリンピック自体が好きでないが、報道する側の姿勢も相変わらずで、優勝したら褒めちぎり、負けても健闘を讃えるという、どちらにしても日本の選手を賞賛する美辞麗句ばかりで吐き気を覚える。1964年の東京大会のような時代じゃないのだから日本選手ばかりを応援するよりも、世界一流の選手の演技にこそ注目する場だと思うが、新聞を見ても写真は日本選手のものがほとんどで、「おらが県」の選手の活躍ばかりを喧伝する国民体育大会の新聞紙面と大差ない田舎臭さだ。
さらにメダルを獲得した選手が、さも日本のために頑張ったようなコメントを出すのもウンザリ。まもなく終戦記念日だが、特攻隊員だったり出征させられた人が語るなら涙すらもって素直に嚥下できるが、今や娯楽の延長にすぎないスポーツの選手が国家を出汁に語るのはおこがましい。どうしてただただ自分のために必死だったと、もっと素直にホンネで語らないのか?お利口さんばかり。アアイヤダ。

五輪が終わっても帰国した選手を空港で取材したニュースや、メダルを獲得した選手が地元の自治体の首長らに報告に行く話などが繰り返され、いつまでたってもオリンピックの余韻は続く。冷めたスープを電子レンジで温めてもう一度味わうような出がらしのネタは勘弁してくれ!
大晦日の紅白歌合戦など最近は見る気も起きないが、きっと審査員などにもメダリストを引っ張り出してくるだろうし、2024年の重大ニュースをまとめた番組などでもどうせ五輪が多く取り上げられるだろうからこれからもまだまだ辟易させられそうだ。

しかもこれが終わればパラリンピック。夏は毎年めぐってくるが五輪が行われる年はなおさら鬱陶しくて暑苦しい。

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いっとき自分の写風をかなぐり捨ててEF5861と富士山を絡めた写真を撮ろうと躍起になった時期がある。1981年から82年にかけてのこと。何度も何度も富士山バックで撮れる三島~函南に赴いた。
だが、その発想は実にバカバカしいものだったと後になって気づくことになる。なにしろ頂上付近に雪をまとった富士山は当然、冬ならではの光景で、しかもそこそこの雪が積もるのは1月下旬から4月上旬の限られた期間、それも雲がかかってしまうことが多いばかりか少しでも暖かい日には(雲がなくても)霞んでしまう。また、下り列車撮影には良いポイントが少ないため狙い目は上り列車で、それも午前中でなければ光が悪く撮りに行く価値はない。こう列挙するとこれらの条件が揃いそうな日に、何度も何度もスケジュールを調整して出かけたのはおそらく一過性の病だったのだろう。

幸運を求めて61号機が午前の上り列車に充当されるとしばしば東名高速を沼津ICで下りた自分が、しかし単なる鉄の塊である機関車と富士山を絡めたところで、果たしてそれに何の価値があるのだろうと気づいたのは、それからまもなくのこと。例えれば好きな女の子とお花畑を絡めるような、アイドルをより可愛く見せる写真ならともかく、そもそも人の手によって造られた鉄道車両の大きな前面窓に惹かれただけなのに、雪を頂いた美しい富士山と一緒にしてはせっかくのチャームポイントは目立たないし、61号機自体がよりカッコ良く写るわけでもない。そう気づいた途端、自分はなんてバカなことにカネと時間を注いでいるのだろうとアホらしさがこみ上げてしまった。
だから、この時の反省が超望遠レンズの多用へとつながることになるが、長ダマこそが大窓の魅力をさらに引き立てると気づけば気づくほど、61号機がせっかく午前中の上り運用に充当されたチャンスを多々棒に振ってしまったことを大いに嘆いたものだ。空気の澄んだ真冬に上京する61号機、丹那トンネルの東側ならどこで撮っても順光だったのに、それを富士山をバックに配するなどと言う俗物的な発想に囚われて、自分好みのアングルで撮れたであろう絶好のチャンスを何度も無駄にしてしまった。バカの骨頂だ。

今回アップしたのは三島~函南まで出かけた挙げ句、最初は見えていた富士山が雲に隠れて玉砕。その後、場所を移動して撮った「お呼びじゃなかった」EF5868。61号機は下り列車でサイド気味に撮ったが富士山も見えず意気消沈。そもそも列車の手前に架線柱がかかるアングルなど自分だけだったら絶対にチョイスするはずはない。最初から下のようなアングルで仕留める方が前面に日が当たらないまでもはるかにベターだった。
本命の列車撮影が首尾良くいかず痛い思いを味わった後、こういう手堅いアングルで別の列車を撮っても浅ましいだけで少しも埋め合わせにはならない。ましてそれが唯一無二の61号機なのだからなおさらで「負けは負け」と潔く認め次の機会に期待をつないでサッサと帰ってくるべきだった。恥じ入る。
それでも40年以上たって国鉄時代に誕生した機関車が消滅しそうな今だから、あざといようだが「撮らないよりはマシだった」と開き直るべきなのか。世の中ではそれを強弁というのだが。

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2024年8月 1日 (木)

お呼びじゃなかったEF58の画像⑬

8月に突入したが暑さはまだまだ続きそう。様々な方々から鉄道撮影に関する情報をいただいているが外へ出る気が起きず、申し訳ないと思いつつも全てパスしている。3日などは先がないEF65501が高崎~横川のSL列車に起用されるというが、とてもじゃないが炎天下に身を晒す気力も湧かない。あの短い区間にどうせ大勢のファンが押しかけ、それだけでも人熱れ(ひといきれ)でムンムンするだろうに、さらに、集まるのは目の色を変えた連中ときているのだからわざわざ3時間もかけてノコノコ参戦しても体力、気分ともにマイナスにしかなるまい。こんなことでは引退が間近といわれるカシオペア客車にせよ高崎の国鉄型機関車にしても、もう目にすることもなく終焉となってしまうかもしれないが、それでも後々後悔することはあるまい。

それにしても高校、大学の頃ってこんなに暑かったっけ?と思う。夏休みが待ち遠しく、いざ休みに入ったら大喜びで三脚を含めた機材を担いで電車利用であちこちに行ったもの。駅から少し距離のある撮影地にも徒歩で行っていたし、電車だってまだすべての車両に冷房など搭載されてはおらず、暑いには暑かったものの今のような灼熱は滅多に経験しなかった。それがこのところ天気予報で翌日の最高気温が40℃になるという予報さえ当たり前で、しかも熱中症アラートなどの警報まで発せられ救急搬送される人も日々後を絶たないようになってしまった。これはもはや「地球温暖化」などというぬるい表現は現実的ではなく、「地球炎熱化」などもっと強い表現を用いるべきではないか。

さらに気温だけでなく湿度が高い日も多く暑さが以前にまして不快となり、昔は窓を開けて扇風機だけで過ごした夏休みが信じられないくらい。今朝などは先に起床した妻が北海道・釧路の期間限定賃貸マンションの家賃をネットで調べているほど。寒さは何とかなるが暑さについては2人ともダメ。いよいよ本気で夏の東京を脱出する術を考えないと「人生百年時代」など絵に描いた餅でしかない。

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前の段落でもうすぐ消滅する高崎の国鉄型機関車の話を引き合いに出したが、現段階で発表されている来月のお別れ運転以降も何かしらの催しがあるらしい。高額展示会などは願い下げだが、もしフィナーレを飾るお別れ運転が続くのだったら、下手な惜別の文言が入ったマークの掲出などやめて、特にEF65501については東海道線時代のブルートレインのヘッドマークでも取り付けて走らせた方がふさわしいと考えるがいかがだろう。牽引する客車についてはせいぜい12系ぐらいしかマッチするものはないが、それでもこの元特急牽引機の引退を惜しむには良き演出だと感じる。

嘘か誠かはあずかり知らぬところだが、かつて東京機関区が廃止される際、ブルトレのヘッドマークは職員の手によって火事場泥棒的にほとんどが持ち去られたという噂も耳にしているから、もはや博物館にあるものしか残っていないのかもしれないが、わざわざ惜別のマークをこさえるくらいなら、レプリカでもその方が後々の展示などにも使えて利用価値は高いのではないか。

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1977年12月18日撮影の「銀河」牽引の54号機。まあ、書くべきコメントも見当たらないようなスタイルのEF58だが20系寝台客車とのマッチングは決して悪くなかった。客車の帯が白いからで、これが24系になって銀の帯だと白いHゴムとのマッチングが劣るから、これはまあ何とか咀嚼できた。

田町のホームは東京駅方は遠くのカーブから直線になって撮影しやすい反面、品川方は大きくカーブして編成の後部が見えず、ホームの先端に行くとまるでダメだった。そこでホームの中央付近でカメラを構えるように心掛けたが、それはそれで京浜東北線が停車していると全く撮れないというリスクを伴った。まあ、ダメなら東京駅から品川に戻る回送列車を待てば良いだけだから、それほどのことではないもののHゴムの機関車の場合、わざわざ田町に居残ってまで待つのは無駄で、さっさと片付けて帰りたかったから、こんなショットも結構残った。

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